禁断の文学!

カナリア・甘い密
●幻のエロティシズム文学『カナリア』が4月10日に、『甘い密』が6月10日に幻冬舎アウトロー文庫で登場しました。カバーイラストは大西洋介氏だ。●


(『甘い密』解説より)この数々の愛のかたち、あるいは勝手な欲望のかたち、あるいは理解しあえない男女の哀しみ、あるいは完璧な満足感、を読んでいくうちに、あなたはとても異性のからだが 触りたくなるだろう。
 すべすべした、あるいはざらざらした、直線の、あるいは曲線の、濡れた、あるいは乾いた、愛しい、あるいは鬱陶しい、異性のからだを。
 上品で熱い、美しい欲望をきっとあなたは抱くことになる。
 そしてそれは山川健一の術中であったりする。   作家、島村洋子□


この小説は、1992年から93年まで『S&Mスナイパー』に連載された、マゾヒズム小説だ。93年に『S&Mスナイパー』の版元であるミリオン出版から単行本として出版され、品切れ後はマニアのショップで丁寧に包装され数万円もで売られていたとのことだ。だが各社が文庫化をためらい、二度と陽の目を見ることはあるまいと思っていたら、幻冬舎の見城徹氏がアウトロー文庫を立ち上げ、その中に収録してくれることになった。
 読んでいただければわかっていただけると思うが、ぼくは別にポルノグラフィを書いたつもりはない。いや、もちろんこいつはポルノグラフィなのだが、同時にぼくの文学の本質が込められている。「山川さんの作品はたいがい読んでるんですけど、あのSM雑誌に連載したのだけは読めなくてェ」なんて女の人がけっこういるが(ともこちゃん、みどりちゃん、かおるちゃん、君達のことだよ)、それは読者としての怠慢というものである。
 エロティシズムと向き合う時、日頃は理性的なさまざまな鎧で武装している自我が、裸にさらされる。人は思いもかけない自分というものに出会い、戸惑い、だが感動もし、人間の名で呼ばれる存在がいかに複雑で怪奇であるかを納得するのではないだろうか。それが、少し時間が経過してから本書を読み返したぼくの感想である。



 さかしまの世界より  文学は滅びた、という言葉さえも、今ではもうあまり聞かなくなった。それほど、文学の衰退は一気に加速したということなのだろう。だがぼくは個人的に、デジタルメディアやビートミュージックが決して表現できないものを、文学こそは表現し得るのだという確信を持っている。もちろんそれは、自分なりにデジタルコンテンツや音楽を体験し、内面に取り込んだ上での感想だ。文学という、あるいは小説という枠組みは、少なくともぼくのなかではさらに新鮮に呼吸しつづけるだろう。
 ぼくは、自分でもそうとは気がつかないくらい、とんでもない楽観論者なのかもしれない。もしそうなら、それを神に、あるいは『カナリア』にならって言うなら悪魔に感謝しよう。
 幻冬舎アウトロー文庫に『カナリア』そして甘い密が加えられたことを、ぼくは光栄に思う。文学はたとえばこんな場所でなら、新鮮な呼吸を続けられるのである。
 君は、自分を信じているか?
 人は、どれほどまでに己の神たりうるのだろうか。
 君は怯えているか、寒さを感じているか?
 エロスはいつだって、死と隣り合わせだった。
 そんななかで、君はどれほどまでに裸でありうるのか?
 裸の肉体に、どれほどまでに不潔な、酔いしれるような苦悩を抱えているというのか?
 準備はいいかい?
 ようこそ、さかしまの世界へ。